無罪主張すると怒号が飛び交う終末の国

時機に遅れ気味であるが,いわゆる東池袋母子死亡事故事件の第一回公判期日で,被告人である飯塚氏が,無罪主張をしたとの報道が出た。

すると,日本中で,飯塚氏をバッシングする言論が飛び交った。

もう,SNSでのバッシングは当然のこととして,メディアでもそれを批判する論調が飛び交い,コメンテーター的な芸能人も言いたい放題のバッシングをしている。

 

 

しかし,無罪主張をすること自体は何の悪でもなく,法治主義国家として当然持つべき防衛権である。日本は罪刑法定主義責任主義,そして適正手続の下に刑罰が下される仕組みになっている。無罪主張をすることが悪だと決めつけるのであれば,もはや刑事裁判などいらない。そういう国家で構わないのであれば,どうぞそういう国家に移り住み,警察権のやりたい放題を許し,どれだけの冤罪をかけられても,おとなしく国家に殺されるか拘禁されるか財産を奪われれば良い。私はそのような国には絶対に住みたくない。

 

私たちは証拠を知らない。もしかしたら本当に車が不具合だったのかもしれない。飯塚氏の主張を嘘のおとぎ話だと証明する材料を何一つとして持ち合わせていない。

証拠によって正しく飯塚氏の主張が認められず,ひいては有罪の立証がなされたのであれば,やったことに応じた刑罰を受け,法律上可能かつ適正な範囲で苦痛を与えれば良いのである。

 

バッシングをする人々は,まさか自分が冤罪に巻き込まれないとでも思っているのだろう。そう思うことは,仕方が無い面がある。

しかし,どうか自分が言っていることの危険性を理解して欲しい。あなたが言っていることの先にあるのは,あなたの権利や自由を理不尽に奪われる,終末の国でしかない。

日本学術会議候補者任命拒否問題について考える

日本学術会議の会員として同会議に推薦された105名のうち6名が推薦されなかった問題について私見を述べておきたい。

なお,あくまで法解釈を追究するものである。

 

問題の条文は以下のとおりである。

日本学術会議

第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、こ れを組織する。

2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
(3項以下略)

第十七条 日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者の うちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦する ものとする。

 

つまり,法律上,①日本学術会議が候補者を内閣総理大臣に推薦し,②その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する,というプロセスを辿る。

総理大臣が推薦に基づかずに誰かを会員に任命することは明白に違法である。今回の問題も,これの埒外にある。

問題は,推薦された候補者を,総理大臣が拒否して任命しないことができるか,というところにある。

この問題について,法律には,できるとは書いていない。一方で,たしかに,できないとも書いてはいない。

 

私は,この法律を素直に読めば「できない」という結論になるのが自然であると思う。

もし任命拒否ができるのなら,「ただし,内閣総理大臣は,推薦された候補者に●×▲の事由があるときは,任命を拒否し,再び候補者の推薦を求めることができる。」と書き加えるのが普通であろう。

ただ,解釈の余地はあるので,もう少し,法律の全体や立法過程を踏まえて,じっくり検討してみたい。

 

 

ここでまず,極論を突き詰めたときのことを考えてみたいと思う。

もし,任命拒否を可能とした場合,時の総理が,自身の意に沿う学者が同会議によって推薦されるまで,延々と任命拒否をし続ければ,すべて自身の意に沿う学者で満たすことが可能である,という事態が生じうる。もちろんこれは極論であるが,法律上の可能性としてはありうる。

他方,任命拒否を不可能とした場合,同会議には一切の民主的コントロールが及ばないといっても過言ではない。

 

このそれぞれの事態に注意して,条文を見ていきたい。

 

まず第1条を見てみよう。

 

第一条 この法律により日本学術会議を設立し、この法律を日本学術会議法と称する。

2 日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。
3 日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。

 

この条文からみると,同会議は内閣総理大臣が所轄し,経費は税金から支払われる仕組みになっている。

内閣総理大臣の所轄ということは,素直に考えれば行政権に属するといえるし,税金が付されるわけだから,民主的コントロールが及ばないという結論には違和感がある。

 

第二条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

 

しかし,第二条を見ると,学術会議の位置づけは,「我が国の科学者の内外に対する代表機関」だとしている。なるほど,科学者の代表という位置づけなのであれば,その人事を科学者で完結させることは全くといって良いほど自然である。

 

先の条文を読み進めてみる。

第三条は,日本学術会議は,独立して,科学に関する所定の職務を行う,としている。何からの独立なのかは書いていないが,素直に読めば,”何からも独立して”という意味だろう。

 

第四条は,政府が同会議に対して所定の事項ついて諮問することができるとしている。

第五条は,政府に対して,所定の事項について勧告することができるとしている。

 

諮問することができるからといって,上下関係(指揮命令関係)があるという必然性はないし,一方で,勧告することができるということは,やはり独立性の要素が強い。

 

ここまで読みすすめてみると,日本学術会議は,政府とは独立の関係にあり,その独立性も強いという評価が妥当なように思う。

 

 

さて,人事という面で,別の条文を見てみよう。

 

第二十五条 内閣総理大臣は、会員から病気その他やむを得ない事由による辞職の申出があつ たときは、日本学術会議の同意を得て、その辞職を承認することができる。


第二十六条 内閣総理大臣は、会員に会員として不適当な行為があるときは、日本学術会議申出に基づき、当該会員を退職させることができる。

 

25条は,辞職の場合の規定であり,本人の申出→会議の同意+内閣総理大臣の承認というプロセスがある。

26条は,退職の場合の規定であり,学術会議の申出→退職させるというプロセスがある。

さて,いずれの場合も,学術会議がNOといえばNOという点では共通している。では,学術会議がGOを出した(25条の場合は同意,26条の場合は申出をした)にもかかわらず,内閣総理大臣がこれを拒否することができるのか?ということも問題になろう。任命の裏返しの問題として参考になる。

ここでくせものなのが,25条は「承認することができる」26条は「退職させることができる」という条文になっているということである。一般に法律の読み方として,「できる」というのは,「しなくてもよい」ということを含意しており,主体には,するかしないかの裁量権があるといわれている。

ただ、そういう書き振りだからと言って、必ずしも裁量権があると解釈しなければならない必然性があるわけではない。もっとも,”条文の素直な読み方”というのは,法解釈の出発点であるから,この点は軽く見てはならない。

 

 

さて最後に、この法律の歴史を見ていきたい。

衆議院のホームページに、改正前の本法が掲載されていた。

 

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00219480710121.htm

 

ここで何よりも目を引くのは、もともと学術会議会員は、科学者による選挙によって選出されており、内閣総理大臣の任命など存在しなかったということである。

しかも、先の辞職・退職の点も、内閣総理大臣の承認等など存在しなかった。

学術会議の人事は、科学者達において完結していたのである。

 

では,なぜこれが推薦制に改められたのか,が重要である。

選挙制がはじめて推薦制に改められたのは,昭和58年の第98回国会で可決された改正法である。

 

その趣旨説明が,第98回国会参議院文教委員会第6号に載っていた(ネットにも載っているのでURLを載せておく)。

kokkai.ndl.go.jp

 

長くなってしまうが,参考人の岡倉古志郎氏の答弁を抜粋する。

「 しかし、その後この選挙制度については従来の全会員を選挙で選ぶということについては深い反省が施されました。あらゆる制度がそうですけれども、国会議員の選挙も含めましてすべての制度に欠陥がないというものはあり得ませんで、学術会議の会員公選制という制度にもさまざまな欠陥がございます。そういう点をどう是正するかという配慮から、この三分の二までは有権者たる科学者による直接選挙で選ぶ、残りの三分の一についてはその当選した科学者が、これなかなか日本語にうまくならないので横文字で申し上げますが、いわゆるコオプションに基づく推薦制を併用するというのが結論でございます。
 なぜこういうことを考えたかと申しますと、そもそも改革を考える基本的前提として、今度の法改正の理由にも挙げられておりますが、学問、科学研究の多様化とか細分化とか、とりわけ複合的、学際的領域の出現というような状況がございまして、これに対応しなければ学術会議の職務は果たし得ないということでございますので、その点を考えますと、たとえば複合的、学際的領域からの会員を選挙によって選ぶというのは大変むずかしいことで、そういう方々に推薦によって加わっていただける。それからまた、国際学術団体がいまたくさんございますが、日本人の科学者でその会長とか副会長をやっていらっしゃる方もいっぱいございます。そういう方の中の主な方だけでも学術会議の会員にいわばなっていただく。これも選挙では必ずしも制度的にうまくまいりません。
 それから、お隣におられて大変失礼なんですけれども、向坊先生のような日本でも屈指の見識のある科学者がおられますが、向坊先生は会員選挙では落選されたことがございます。これは選挙制度の一つの欠陥でございまして、そういう方に、選挙でたとえ出られなくてもぜひ出てほしい、会員になってほしい方は、推薦制度でコオプション制ならば加わっていただけるというような配慮で、この一部推薦制というものを取り入れられたのがこの改革要綱の基本的な会員選出制度についての考え方でございます。」

 

つまり,推薦制に移行したのは,複合的・学際的領域から会員を選ぶためには選挙制では難しいため,推薦制に改めた,ということである。

これの当否はさておき,もともと学術会議の会員の選定は,選挙制度の下で科学者の中で完結されていた。その後,推薦制に改められたが,それはその人事を行政が担うべきだという理由で改められたわけでは無い。あとは,本論を扱った他の記事の色々なところで引用されているように,内閣総理大臣の任命は形式的な任命行為である,と解釈されていたのである。

 

そうすると,学術会議のメンバーは,もともと科学者達によって決められていたのであって,行政,あるいは行政を通じた民主的コントロールの余地は無かった。改正法によってこれは推薦制に改められたものの,その趣旨は,会員の選任権を行政に委譲するべきだということにあったわけではなかった,という経過を辿っていることになる。

 

ここまで見てくると,現行法においても,学術会議の会員の選任権は,学術会議にあると解釈することが妥当な解釈であると見ざるを得ない。先の25条及び26条も,法文上は裁量権があるように見るのが素直だとしても,形式的任命に対応して,これも形式的なものであると読むのが素直だということになろう。

日本学術会議は,先に述べたように,日本の科学者の内外の代表機関という位置づけ(2条)なのであって,その会員を誰とするかについて科学者の中で完結することはいたって普通であるように思う。むしろ,そこに行政が介入する必然性が無い。

唯一気になるのは,予算が国費持ちだという点であり,民主的コントロールを及ぼすべきなのではないかという点であるが,上述したこの法律の制定過程や,学術会議の法律上の位置づけを見ると,科学者を信頼して会員人事を任せた,と読むほかないように思う。

 

私は以前の記事で,検察人事は内閣を通じて民主的にコントロールするのが本来であり,そしてそうあるべきだ,と述べた。このこととの整合性が問われるかも知れないが,検察官の権力は学術会議とは質的に全く異なり,そして強大であるからであって,学術会議人事とはまた異なる,というべきである。

 

つまり,今回の菅総理の任命拒否行為は,法律上許されないー違法であるというのが結論である。

 

死刑

9月24日、東京弁護士会の臨時総会で、死刑執行停止を求める決議が可決された。


可決されたといっても、決議反対派と棄権の合計人数は、賛成派にそれなりに迫っていたらしい。


弁護士会がこのような決議をして良いのか、という論点もあった(私は問題ないという立場ではある)が、それはさておき改めて死刑の是非について私見を述べておきたい。


私は、死刑は廃止すべきであると思っている。

廃止論にもいろいろな意見があるが、私は、この究極の不利益処分を正当化する理由がないということに尽きる。


刑罰の本質が応報にあるといっても、死は死で報いるべきという意味ではない。昔、刑罰理論で決定論が一世を風靡し、いまでもその考え方が尊重されていることからも明らかなように、人間の行為はある程度、その人ではコントロールすることができない要素によって決定される面があることは否定できないはずである。だからこそ今日で絶対的応報刑論は否定されている。

そうだとするならば、どれだけの悲劇を起こしたとしても、100%自己責任ということはあり得ず、本人以外にも責任があるということである。

そうだとすれば、究極の法益である生命を奪うことは、どうやっても正当化し得ない。それが私の考えである。



被害者やその遺族の気持ちを考えたことがあるのか?

自分の家族が殺されても同じことが言えるのか?

これは、存置派からよく言われることである。


被害者や遺族が、犯人に対して死をもって償ってもらいたいと思うことは全く否定しないし、全く非難もしないし、そして当然のことだろうと思う。

そして、自分の家族が殺されれば、私だって犯人を殺したいほど憎むだろう。

しかし、刑罰は本来的に特定個人のためにあるわけではなく、法を守るために存在する。被害者や遺族の救済は、民事的な救済や、刑罰とは別の手段による救済でなければならない。

死刑、いな、刑罰とは、その性質が暴力であるからこそ、徹頭徹尾、法と論理によって決定づけられる存在でなければならない。




言葉の魔力

マジックワード」という言葉がある。

陳腐な表現だが,言葉にはとてつもない魔力があると思う。

 

新型コロナウィルス感染症をとってみても,「三密」や「ソーシャルディスタンス」という言葉が日本中に浸透している。これにより,多くの人々が三密を避けようとし,また,ソーシャルディスタンスを取ろうという行動規範を持つに至っている。

 

このような現象に,示唆を感じる。

私は,説得術は,「証拠と事実」そして「論理」によって構成されるべきだと思っている。そしてこれは間違いないだろうと思っている。

しかしながら,伝える情報量が多いと,どれだけ精緻な論理を組み立てようとも,人は理解に際して消化不良を起こすし,理解しても忘れやすい。

そこで,「キーワード」を利用すると,印象に残り,理解しやすいし記憶に定着しやすくなるのだろう。

 

考えてみると,むかし,怨恨の放火事犯で,「恨みをもつことは致し方ない」という弁論を展開したことがある。この言葉は無意識だった。しかし,自分で話していて,この「致し方ない」という言葉に印象が残った。別にこの言葉自体は,ユニークでもなんでもない。ただ,なぜか印象に残った。

それは聞いた側も同じようで,判決にはそのまま「恨みをもったことは致し方ない」という表現をされた。無論これは直接には判決書を起案した裁判官の言葉なのだろうが,評議で,この言葉が議論されたかも知れないと思うと,説得が功を奏した気がして,嬉しかった。

 

しかし,別の怨恨の放火事犯で同じように「恨みをもつことは致し方ない」という表現をすると,なぜか自分の中で印象に残らなかった。判決書にも,見事に書かれなかった。その事案はその事案で事情を汲んでもらえたが,前回もうまくいったし今回も,とはいかなかった。たぶん,証拠と事実,そして論理がついてこなかったのだろう。

 

『伝える内容』は,「証拠と事実」そして「論理」であることは間違いない。

しかし,『伝える技術』において,「キーワード」を的確に利用することが,理解を根付かせるうえで非常に重要な技術なのだとおもう。

ただ,うわべだけのキャッチーなコピーライトを使い回せば印象に残るわけではないのだろう。証拠と事実,そして論理。これを前提として,浮かび上がってくる的確なキーワードが,「マジックワード」として,聞き手の心に収まるのだろう。

刑事裁判とマスク

裁判員裁判で弁護人がマスク着用を拒否したことが話題になっている。

批判する論調もある。

 

しかし,なぜ裁判員裁判でマスクをすべきなのか,私には全く理解ができない。被告人も,弁護人も,そして裁判官も裁判員も証人も検察官も全員マスクを外すべきだ。

 

なんのために公判を開くのか,なんのために公判廷で証拠を取り調べるのか,考えて欲しい。

 

刑事裁判は,「言葉」だけのやりとりをすれば良いというものではない。

刑事裁判は,法廷で見聞きした全てが証拠となり,逆に,法廷で見聞きした全て「のみ」が証拠である。刑事裁判で登場する,すべての人物ー被告人,証人だけではなく,関与する全当事者のコミュニケーションの結集こそが「公判廷」なのである。

人間のコミュニケーションは,言葉だけで行っているものではない。「目は口ほどにモノをいう」「口角があがる」「小鼻を膨らませる」という言葉があるように,言葉ではないコミュニケーションがある。

刑事ドラマなどでも,わずかな表情の変化から犯人を察知するようなシーンが描かれている。

マスクは,そういう表情の微妙な変化を遮断する。コミュニケーションを不完全なものにする。それは,刑事裁判を不完全なものとすることにほかならない。

 

一方で,新型コロナウイルス感染症拡大防止というのは,たしかに重要な要素である。

しかしながら,各当事者同士は,それなりに距離が取られており,検察官同士,被告人・弁護人同士,裁判官・裁判員同士はともかく,各グループ同士は2m以上離れているだろう。たしかに法廷はオープンエアーではないので,ソーシャルディスタンスのみでは心許ない。

ただ,じゃあマスクをすれば良いのか。色んな医師の意見を見ているが,結局,「しないよりは飛沫が飛ばない」,というくらいの意味合いに過ぎない。接触をしない,距離を取る,ということこそが有効な感染症拡大防止策である。

だから,「マスクするしない」の論点は極めてくだらない。むしろ,さもマスクが免罪符かのように語られる論調には強い疑問を覚える。結局「しないよりはしたほうが,受け手としては安心」という意味なのだろう。いかにお互いの適切な距離(感染拡大防止とコミュニケーションの両方の観点から)を取るか,を議論する方がはるかに重要であり,それでも心配ならば,コンビニのように透明なシート?をぶらさげたり,アクリル板などを導入すればよい。

 

これは「刑事裁判を受ける権利」「証人審問権」の問題であり,かつ,日本の刑事司法システムの根幹の問題である。「マスクをすることによる医学的には必ずしも正しいとはいえない安心感」「アクリル板を買う金がありません」に劣後する問題とは到底思えない。

賭博はなぜ犯罪なのか

時機に後れ気味であるが,東京高検検事長であった黒川氏の賭博問題について扱う。

 

黒川氏は,緊急事態宣言のもと,さらには自身が社会問題のやり玉にあがっている状況のもと,いわゆる三密下でマスコミ関係者と賭け麻雀をしていたために,盛大に批判を受けた。

 

批判されている主なポイントは以下の4点であると思われる。

①犯罪である賭け麻雀をしていたこと

②公務員が自粛要請下で不要不急の三密だったこと

検察庁法改正法案が国民的議論を呼び起こし自身にも批判が及んでいる中での軽率行動

④マスコミとの癒着

 

私個人としては,②③は正直どうでもいい。自粛要請に従う義務は公務員にだってないわけだし,むしろ最も問題視したいのは,あまり騒がれていない④の問題,つまり検察官とマスコミがこのように癒着していることである(もちろん取材の自由があり,人々の知る権利に奉仕する意味で必ずしも全てを批判したいわけではない。時間があればこの問題意識を別途記事にしたいと思っている。)。

 

 

さて,①の問題はどうだろうか。

たしかに我が国の刑法では,賭博行為が犯罪とされている。

しかし,覚せい剤と同じように,やはり考えて欲しい。なぜ賭博が犯罪とされているのか,ということを。

これは最高裁判例がある。最大判昭和25年11月22日・刑集4巻11号2380頁である。これは賭博開張図利罪の事件であるが,賭博行為について以下のように述べている。

賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。」

時代柄もてつだって,非常に難解であるが,賭博をけちょんけちょんに言っていることがわかる。要するに,偶然に任せて財産を得ようとするもので,「勤労の美風」を害する,副次的犯罪を誘発する,国民経済の機能に重大な障害を与えるおそれすらある,と言っている。

 

「勤労の美風」とは一体何なんだろうか。労働は美しいというのは,普遍的な価値観なのであろうか。国民をだらけさせてないで働かせるために賭博が禁止されるという意味にほかならないのではないか。これを受け入れられるだろうか。

たしかに賭博で人生を破滅させる人はいるだろう。でも,これも覚せい剤と同じで,前者はパターナリスティックな問題であり,やる人を刑罰という重大な不利益を正当化するほど合理性があるだろうか。

また,たしかに賭博ゆえの犯罪というのはあるだろう。しかし,これも覚せい剤と同じで,賭博ゆえの犯罪は,そもそもその犯罪自体が処罰されている。やはり,刑罰という重大な不利益を正当化する合理性があるだろうか。

 

また,疑問に思ったことはないだろうか。

「競馬や競艇も同じでは?なぜ公営ギャンブルがあって,それが許されているの?」

「カジノ誘致しようとしてるよね?」

 

結局,賭博罪も,所詮は国の都合に思えて仕方が無い。

無論,たしかに賭博には上記のような問題があるので,じゃあ野放しでいいのかといわれると,ためらいを感じる。刑罰として禁ずることが全く不合理ではない,とも言えるのかも知れない。

 

ただ,ここで私が言いたいことは,賭博の何が悪いから黒川氏を批判するのか,ということを考えて欲しいということである。

ダメなんだからダメに決まってるだろ,というのは単なる思考停止であり,国の都合に踊らされているというべきである。

検察庁法改正案についての私見

検察庁法改正案に反対する声が多く上がっている。

 

私自身も反対であるが、少し反対派の主流理由とは異なる。

 

改正案の新旧対照表は↓こちら。

https://www.cas.go.jp/jp/houan/200313/siryou4.pdf

 

簡単に言うと、

現行法:検事総長は65歳で定年退官。それ以外の検察官は63歳で定年退官。

改正案:検察官は「全員」65歳で定年退官。ただ、次長検事検事長、検事正は63歳になったら原則としてヒラ検察官になる。ところが、内閣または法務大臣が、公務の運営に著しい支障が生ずる一定の事由にあると認めるときは、64歳まで検事正ポストを続けさせられる。さらに事由が続けば65歳の定年までいける。

 

ということである(正確性が若干怪しいが、正誤については上記の改正案を確認してほしい)。

 

反対派の主要な言い分は、たぶんこういうこと。

黒川さんが内閣忖度野郎で、内閣が検事総長に仕立て上げたいから解釈変更した。この出来事に代表されるように、内閣が検察人事を掌握して自分たちに捜査の手が伸びたりしないように、こんな法改正をしようとしているんだ、ということである。

 

ただ、私はこれは有効な反対論ではないと思うし、私はそうは思わない。

たしかに、検察官は行政からある程度独立した地位にあるべきである。行政にメスをいれなければならないからである。

しかし、検察官は紛れもなく行政作用である。その人事を、行政権が属する内閣が決めることは、まったくもって正しい。

また、検察の人事決定を、検察組織内部で完結させることができるというほうが、まったくもって不健全である。内閣は、国民の力で政権を交代させることができる。これによって「内閣の人事」は国民がコントロールすることができる。しかし、検察庁が内閣のコントロールさえ及ばなくなれば、検察組織は完璧に独善化する。むしろ、今まさにそうなっているのではないだろうか。

検察官は人を逮捕することができる。検察官は人を刑事裁判にかけることができる。行政作用の中で、最も強力な権限を持っている官庁である。“最も民主的コントロールを及ぼさなければならない官庁”といっても過言ではない。

したがって、「政権が検察人事を掌握するなんて何事だ」という反対論は、ありえない。たしかに、現政権の体たらくからすれば、そういう反対論が起きることもやむからぬ面はある。しかし、その反対論を突き詰めていく方が、よほど怖いと思う。

 

そもそも、この法改正内容と、人事権の所在はほとんど関係ない(役職定年延長の点は関係あるといえるかもしれないが。)。なぜなら、現在も人事権は内閣にあるからである。

 

1点補足しておくと、解釈変更で黒川氏の定年延長をしたことは反対である。いや、反対とかではなく、紛れもない違法であり賛成のしようがない。内閣も黒川氏も恥を知るべきだ。

 

さて、検察庁法改正法案について、結論は反対であるが、この法案に私が反対な理由を簡単に述べておく。

①検察組織が生まれ変わるには、若返りか法曹一元しかないと確信している。それに逆行するこの法案は百害あって一理なし。

②公務に著しい支障が云々というが、実際何か支障が生じたのか。63歳だとまずいけど65歳ならしかたなくなる理由は何か。