この国を憂う④改善策?

裁判所が弱いという話を続けてきた。その原因はもはや日本の歴史的背景にあるのではないかという話をした。


ではどうすれば良いのか。どうしようもないのだろうか。


おそらく、国民の意識を変えることが最も重要だろう。裁判所が法と理論、良心に基づいて国が混乱しそうな判決を下しても、法に基づいて裁判所がそう言うんだから仕方ない、という土壌を作るのが最も効果的だろう。裁判官は優秀だ。彼らもまた憲法を学んできた。官庁としての裁判所の、組織の力学に汚染されなければ、きっと法と理論と良心に従ったまっすぐな判決が多発するだろう。特に、今日の自民党のやりたい放題の状況下ならば。


だが、それはこのままだと実現するには遠い年月がかかる。


どうすれば良いか?

起爆剤となるのは、法曹一元である。


判事補システムを消滅させ、ブラックボックス最高裁事務総局も解体する。

判事も検事も、まずは全員弁護士になるべきだ。依頼人として、人と向き合ってもらう。書類や代理人を通してではない、生の声に、たくさん触れる。刑事ならば、身体拘束の過酷さと不合理さも体験できるだろう。

そうすれば、組織の力学に染まらずに、判事として(検事も)、法律と事件に向き合うことができるはずだ。


しかし、である。

(つづく)

この国を憂う③裁判所の弱さの原因

日本の裁判所の弱さの原因は、いろいろあるけれども、根本的には歴史的背景と国民性が大きいのではないかと思う。

 

 

イギリスは、国民の力で、王から国民へと主権を移したという歴史的な実績がある。自由主義が息づいているのである。

アメリカは、イギリスからの植民地支配から、自らの力で独立したという歴史的な実績がある。権力に対する根本的な不信が根付いている。

こういった歴史をもつ国々は、裁判所に対する期待が強い。

しかし、日本はそういう経緯を辿っていない。天皇主権から国民主権に移ったのは、敗戦して、他国の手によって強制された事柄である。勝ち取った、という言葉にそぐわない。

むしろ、日本は、お上に逆わない基本的な国民性を有している。裁判所も、普通の国民から見れば、「お上」という位置づけなのだろう。

そうであれば、少数者のために空気を読めない判決を遠慮無く下す土壌に欠けているというべきなのだろう。

 

個々の裁判官をみると、昔は判検交流などと呼ばれるものがあったり、法務省のポストに出向したりすることがひとつの出世ルートになっているなど、なぜか行政とつながりを深めたがっている。これは裁判官だけに見られる現象でもない。国民はやはり、行政を「お上」ととらえ、その「お上」に成り上がることはとても名誉に感じる人が多いのだろう。

 

この土壌では、空気は読めていないが憲法と原理原則に従った冷静な判断を、裁判所に期待する方が難しいのだろう。

 

(つづく)

こんな輩を専門家などと紹介するな

www3.nhk.or.jp

 

以下、上記記事の一部を引用

***

元検事の高井康行弁護士は「今回の事件では弁護団が極めて厳しい保釈条件を提示しそれをゴーン元会長に守らせると主張したため、裁判所が信頼して保釈に応じた。しかし、結果的にその信頼は裏切られ多額の保釈金も逃走防止の役に立たなかった。日本の司法制度をかいくぐってゴーン元会長が国外に出国したことが世界中に知れ渡り、日本の司法制度はその程度のものなのかと思われてしまう。これがきっかけになって第2第3の逃亡のケースが出てくることも十分考えられ、日本の司法制度に対して極めて深刻な影響を及ぼすのではないか」と指摘しています。

また、裁判所が保釈を認めるケースが最近、増える傾向にあることについて「今回の問題はこのまま保釈緩和の流れを続けていっていいのかという極めて深刻な問題を提起している。逃走防止のための新たな法制度や仕組みを法曹三者立法府が早急に検討し、その方向性が見えるまでは保釈緩和の流れを一時中断して慎重に検討すべきだ」と話しています。

そして今後の裁判への影響については、「このままレバノンから戻ってこなければゴーン元会長の裁判が開けずに真相は闇の中となり、『何のための司法なのか』ということになりかねない。極めて深刻な問題であり、政府は外交ルートを使って早急に身柄を日本に戻すよう交渉すべきだ」と指摘しています。

****

 

前々からこの高井康行という弁護士には資格を返上していただきたいと思っていたが、この記事における上記コメントは「最悪」という評価が妥当である。

 

http://www.courts.go.jp/app/files/toukei/616/010616.pdf

上記リンクは平成30年の司法統計であるが、平成30年に保釈を許可されたのが約17000人であるのに対して、同年に保釈が取り消されたのは141人である。141/17000ということではないが、保釈が取り消される事例というのは極めて少ないことがわかる。

このような病理現象ともいうべきごくわずかな事例の1つがたまたま世界的に注目を集めている裁判の被告人だったからといって、上記の物言いはまあ浅はかである。

 

何ヶ月もの間閉じ込められ、人間らしい生活を送ることができず、保釈されたと思ったら、愛する妻と普通に会うこともできない想像を絶する生活を余儀なくされている氏のことを思えば(そしてアンフェアな司法制度をまざまざと見せつけられてもいる)、逃げない方が不思議と言って良い。

私は弁護士として彼の行動を擁護はしないが、批判もまたできない。

 

こういう想像に思いを馳せた形跡もなく、ただでさえ高い保釈のハードルに、今度は保釈後の逃亡防止策を法的に整備することを検討しろなど、こちらの常識からすれば考え方が逆である。

そして極め付けは

「保釈緩和の流れを一時中断して」

という、およそ弁護士としてありえない発言である。

 

つまり、法整備が済むまで、本来は保釈が認められるべきかもしれないあなたも我慢してね、ということである。

人権に思いを致せないのなら、是非弁護士をやめていただきたい。また、こういう考えを持つ人は、さすがに検察官に戻ることもやめていただきたい。

 

そしてNHKは、二度とこの人物を専門家としてコメントを取らないでいただきたい。

この国を憂う②裁判所の弱さ

アメリカは、裁判所が大統領令を平気で差し止めるなど、裁判所が強いと思う。

法律と良心に従って裁判ができている。もちろん、そのアメリカの裁判所にも色々あることは承知しているが、日本に比べれば遥かに強い。


一方の日本の裁判所は、本当に弱小である。三権分立が聞いて呆れる弱さである。投票価値平等訴訟では、違憲状態だなんだといっておきながら、一回も選挙無効にしたことがない。法令違憲は現行憲法下においてたったの10件のみ。国賠は意味不明なくらいハードルの高い違法性を要求する。安保法政違憲訴訟は現時点で棄却以外の結論が出ていない。そしてご存知、99.9と言われる異常なまでの有罪率である。


とにもかくにも行政に弱い。もちろん、気概のある裁判官は少なからずいる。しかし、そうでない、いわゆるヒラメ裁判官が圧倒的に多数である。


我が国の行政、政権与党のやりたい放題をもたらしているのは、野党が弱すぎる上に、番人が番人として機能していないからであろう。だから、数の論理を平気で押し通せるのだ、と思う。

(つづく)

この国を憂う①安倍政権と官僚のやりたい放題

かなりまとまりのない文章で申し訳ないが、ずっと思っていることを徒然なるままに書いていくこととする。


今、この国は、本当におかしな方向へ向かっていると思う。

桜を見る会の問題、森友・加計の問題、共謀罪の強行成立、安保法制の強行成立...

枚挙にいとまがないが、とにかく自民党、というか安倍政権は、やりたい放題である。

桜を見る会では、名簿は廃棄したとかいう、もうどう考えても絶対に嘘だといえる言い訳をされた。

あいちトリエンナーレにおける文化庁の対応も最悪の最悪の最悪である。

財界と差別主義層(私はネトウヨとはもう言わない。ネトウヨと呼ばれる層は、右翼でもなんでも無い。差別主義者である。)にしか目が向いていない安倍政権を、全力で支えに行く官僚は、もう行政権を運営できる資質がないと思ってしまう。


私は、官僚の方々は優秀で素晴らしい人々だと思っていた。私なんかでは太刀打ちできないくらい、頭の良い人々だと思っていた。

しかし、どうも見ていると、安倍政権のあんなバカな行動の数々を、全力で守りにいく官僚の軍団を見ると、官僚もまた終わってるのでは無いかと思ってしまう。


ある弁護士の方のブログで、今の自民党のやりたい放題をもたらしているのは、小選挙区制だから、と分析していた。それは非常に納得のいく分析だった。


しかし、もう一つ、あんなにデータに裏打ちができる仮説ではないが、理由がある気がしている。


三権分立の一角を担う、裁判所が弱すぎるということである。


(つづく)

桜を見る会

桜を見る会がとても話題になっている。

予算が膨れ上がっている問題に端を発し、本来の目的から離れて単なる集票イベント(税金の私物化)になってるのではないか、さらに安倍自民党総裁後援会主催の前夜祭が公選法違反なのではないか、挙句の果てに名簿を廃棄し...とにかく桜を見る会という一つのテーマに複数の論点が浮かび上がっている。


ところで、私は不思議に思うのだが、桜を見る会をやめるべきだという意見をほとんど見かけない。


桜を見る会の本来の開催趣旨は、


各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰労するため


などというものであるらしい。

私からすれば、開催趣旨自体に反対であり、税金の無駄だと言わざるを得ない。

人はみな何かを生産し、消費し、国に対して何らかのプラスの影響を与えているはずである。もちろん、その中でめざましい活躍というものはあるが、突き詰めるところ程度の問題である。

それを政府が功労者、功績者として「認定」し、桜を見ながら総理と交流しましょうなど、税金の無駄以外の何ものでもない。


たとえばノーベル賞のように、栄誉ある賞があることによって、それを目指すことがひとつのモチベーションとなり、研究や活動が活性化する効果があるなら良い。国民栄誉賞なども、その意味でまだ許容できなくはない(そもそも国が人の功労を選別することに抵抗があるが。)


しかし、総理と桜を見たいから頑張ろうなんていう人がどれほどいるんだろうか。少なくとも私はそのために頑張ろうなどとは全く思わない。安倍政権ではなくても。


無くてもなんの問題もない。ならば削るべきだ。日本の財政に桜を見る如きで何千万も投下している余裕はない。


しかしなぜかこういう批判はほとんど聞こえてこない。ラジカルな意見なのだろうか。また、民主党政権時代に一度だけ開催してしまった手前、こういう攻め方はしにくいのだろうか。


この問題を調べている過程で読んだのだが、

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68505?_gl=1*1534r1b*_ga*SEZmR3JLR2s0T2R3UXAwbXVwbnRGaGpBYWhfQ2JPSExBU1ZIMnc4TnFwVldOdXdfaEhURFMzakRGdFpkZWxGbA..

この記事に


筆者のように数字ばかり見る人間にとって、5500万円の予算を野党が一斉に「税金の無駄遣い」と非難するのは、会計の重要性原則からみれば的外れだ。


などという記載がある。

会計の重要性原則ってこういう意味だっけ?という感じであるが、そもそも、5500万円という金額を、相対的な見方だけで的外れと切り捨てる人物に、財政を語る資格はない。

悲劇の中で

33名(現時点では34名とも)の方が悲劇に見舞われた事件が発生した。

亡くなられた方,そしてそのご遺族の方には,心より哀悼の意を表明したい。また怪我を負われた方に対しては,一日も早く回復を望んでいる。

 

***

しかし,この時期にこんなことを書きたくは無かったが,この事件に関して,看過しがたい記事を見つけてしまったので,コメントせざるを得ない。

www.cyzowoman.com

 

以下,弁護士のコメントの引用。

 

「この鑑定において、医師等が専門的見地から、『まさに罪を犯そうとしているときに、精神の障害により物事の善悪を判断できる状況にあったか』を検証し、裁判所に意見を提出します。裁判官はこの意見を踏まえて、法律的見地から『この人物に刑を適用して罰するべきかどうか』を判断するわけです。なお、起訴するかしないかを判断する検察官が、起訴する前に科捜研などで被疑者に検査を行い、『この人物は心神喪失だ』と判断した場合には、そもそも『起訴しない』こともあります。この場合は、刑法第39条を適用するわけではなく、『起訴しない』という判断になります」

「今回の事件においては、犯人性(犯人ではないこと)を争うような弁護活動は無理ですし、情状を酌んでもらうような弁護活動も無理でしょう。となると、“お決まり”のように、心神喪失心神耗弱を主張するなどといった弁護活動がなされるでしょうが、報道によれば、青葉容疑者は犯行直後に『パクられた(真似された)』と、動機のようなことを口にしていたとのこと。そのような状況であったならば、心神喪失心神耗弱を主張するような弁護活動も、まず無理でしょう。公判において、もし青葉容疑者が罪を認めるのであれば、弁護人は余計な弁護活動をするべきではないと考えます」

 

この弁護士のコメント内容は,およそほとんどの内容が間違っている。

弁護士が間違ったことを言っているのがそのまま間違っているのか,それとも弁護士が正しいことを言っているのに記者が間違っているのか,というのはよくわからないが。とにかくコメントが間違っている。

①まず,責任能力における「行動制御能力」の要素が欠落している。

②検察官が責任能力がない(という疑いが残る)と判断すれば不起訴になるのはその通りだが、刑法39条の適用がないというのは誤りといって良い。当該犯行に刑法39条の適用がある(という疑いが残る)という判断から、公訴を維持できないから起訴しないのである。そもそも、実体法の適用の有無と検察庁の処分を同レベルで論じること自体がおかしい。

③科捜研で責任能力鑑定をやるなど無いはず。聞いたこと無い。あったとしても例に挙げられるような一般的なものではない。

④なぜ証拠も見ていないのに犯人性を争うのが無理と判断できるのだろうか。極めて難しいことは報道の情報からすると推察できるが,この段階で,どんな証拠が眠っているかはわからないはずだ。報道レベルの知識しか持っていない立場で弁護活動の可能不可能を論じる資格はない。

⑤「パクられた」という動機があることで,なぜ責任能力を争う余地がなくなるのか。動機の了解可能性は単なる1つの要素であって、それがあるから必ず完全責任能力になるというわけではないし,そもそも了解可能かどうか,この一言では判断がつかないはずだ。「お決まりのように」などというが、異常な犯罪が生じた場合に本人の責任能力に目を向けるのは当たり前であり、何らの調査もしないなら弁護過誤と言ってよい。

⑥被疑者が罪を認めたら余計な活動をするべきではない、というのは、職務放棄である。

 

およそ弁護人の役割も責任能力の概念も刑事実務も理解していない内容である。「誤報」と評価して良い。

 

たしかに,このような惨劇が生まれ,その原因を作った「かもしれない」人に対して,やり場の無い怒りをぶつけたくなるのは気持ちとしては理解できる。

しかし,こと弁護士が,もしくはこと弁護士のコメントを得た者が,こうやって世間にウケそうな浅はかな,しかも誤った内容を,さも正しい専門知識かのように世間にロールアウトするのは,極めていただけない。

こういった重大事件だからこそ(事件の大小で役割が変わるわけでは無いが),弁護人はその役割を貫徹し,その訴追されうる(された)人の権利を最大限に保護し,ひいてはこの国の適正な司法システムを守らなければならないのである。

本当にこの弁護士がこのようなコメントをしたのならば、バッジを外すべきである。