言葉の魔力

マジックワード」という言葉がある。

陳腐な表現だが,言葉にはとてつもない魔力があると思う。

 

新型コロナウィルス感染症をとってみても,「三密」や「ソーシャルディスタンス」という言葉が日本中に浸透している。これにより,多くの人々が三密を避けようとし,また,ソーシャルディスタンスを取ろうという行動規範を持つに至っている。

 

このような現象に,示唆を感じる。

私は,説得術は,「証拠と事実」そして「論理」によって構成されるべきだと思っている。そしてこれは間違いないだろうと思っている。

しかしながら,伝える情報量が多いと,どれだけ精緻な論理を組み立てようとも,人は理解に際して消化不良を起こすし,理解しても忘れやすい。

そこで,「キーワード」を利用すると,印象に残り,理解しやすいし記憶に定着しやすくなるのだろう。

 

考えてみると,むかし,怨恨の放火事犯で,「恨みをもつことは致し方ない」という弁論を展開したことがある。この言葉は無意識だった。しかし,自分で話していて,この「致し方ない」という言葉に印象が残った。別にこの言葉自体は,ユニークでもなんでもない。ただ,なぜか印象に残った。

それは聞いた側も同じようで,判決にはそのまま「恨みをもったことは致し方ない」という表現をされた。無論これは直接には判決書を起案した裁判官の言葉なのだろうが,評議で,この言葉が議論されたかも知れないと思うと,説得が功を奏した気がして,嬉しかった。

 

しかし,別の怨恨の放火事犯で同じように「恨みをもつことは致し方ない」という表現をすると,なぜか自分の中で印象に残らなかった。判決書にも,見事に書かれなかった。その事案はその事案で事情を汲んでもらえたが,前回もうまくいったし今回も,とはいかなかった。たぶん,証拠と事実,そして論理がついてこなかったのだろう。

 

『伝える内容』は,「証拠と事実」そして「論理」であることは間違いない。

しかし,『伝える技術』において,「キーワード」を的確に利用することが,理解を根付かせるうえで非常に重要な技術なのだとおもう。

ただ,うわべだけのキャッチーなコピーライトを使い回せば印象に残るわけではないのだろう。証拠と事実,そして論理。これを前提として,浮かび上がってくる的確なキーワードが,「マジックワード」として,聞き手の心に収まるのだろう。

刑事裁判とマスク

裁判員裁判で弁護人がマスク着用を拒否したことが話題になっている。

批判する論調もある。

 

しかし,なぜ裁判員裁判でマスクをすべきなのか,私には全く理解ができない。被告人も,弁護人も,そして裁判官も裁判員も証人も検察官も全員マスクを外すべきだ。

 

なんのために公判を開くのか,なんのために公判廷で証拠を取り調べるのか,考えて欲しい。

 

刑事裁判は,「言葉」だけのやりとりをすれば良いというものではない。

刑事裁判は,法廷で見聞きした全てが証拠となり,逆に,法廷で見聞きした全て「のみ」が証拠である。刑事裁判で登場する,すべての人物ー被告人,証人だけではなく,関与する全当事者のコミュニケーションの結集こそが「公判廷」なのである。

人間のコミュニケーションは,言葉だけで行っているものではない。「目は口ほどにモノをいう」「口角があがる」「小鼻を膨らませる」という言葉があるように,言葉ではないコミュニケーションがある。

刑事ドラマなどでも,わずかな表情の変化から犯人を察知するようなシーンが描かれている。

マスクは,そういう表情の微妙な変化を遮断する。コミュニケーションを不完全なものにする。それは,刑事裁判を不完全なものとすることにほかならない。

 

一方で,新型コロナウイルス感染症拡大防止というのは,たしかに重要な要素である。

しかしながら,各当事者同士は,それなりに距離が取られており,検察官同士,被告人・弁護人同士,裁判官・裁判員同士はともかく,各グループ同士は2m以上離れているだろう。たしかに法廷はオープンエアーではないので,ソーシャルディスタンスのみでは心許ない。

ただ,じゃあマスクをすれば良いのか。色んな医師の意見を見ているが,結局,「しないよりは飛沫が飛ばない」,というくらいの意味合いに過ぎない。接触をしない,距離を取る,ということこそが有効な感染症拡大防止策である。

だから,「マスクするしない」の論点は極めてくだらない。むしろ,さもマスクが免罪符かのように語られる論調には強い疑問を覚える。結局「しないよりはしたほうが,受け手としては安心」という意味なのだろう。いかにお互いの適切な距離(感染拡大防止とコミュニケーションの両方の観点から)を取るか,を議論する方がはるかに重要であり,それでも心配ならば,コンビニのように透明なシート?をぶらさげたり,アクリル板などを導入すればよい。

 

これは「刑事裁判を受ける権利」「証人審問権」の問題であり,かつ,日本の刑事司法システムの根幹の問題である。「マスクをすることによる医学的には必ずしも正しいとはいえない安心感」「アクリル板を買う金がありません」に劣後する問題とは到底思えない。

賭博はなぜ犯罪なのか

時機に後れ気味であるが,東京高検検事長であった黒川氏の賭博問題について扱う。

 

黒川氏は,緊急事態宣言のもと,さらには自身が社会問題のやり玉にあがっている状況のもと,いわゆる三密下でマスコミ関係者と賭け麻雀をしていたために,盛大に批判を受けた。

 

批判されている主なポイントは以下の4点であると思われる。

①犯罪である賭け麻雀をしていたこと

②公務員が自粛要請下で不要不急の三密だったこと

検察庁法改正法案が国民的議論を呼び起こし自身にも批判が及んでいる中での軽率行動

④マスコミとの癒着

 

私個人としては,②③は正直どうでもいい。自粛要請に従う義務は公務員にだってないわけだし,むしろ最も問題視したいのは,あまり騒がれていない④の問題,つまり検察官とマスコミがこのように癒着していることである(もちろん取材の自由があり,人々の知る権利に奉仕する意味で必ずしも全てを批判したいわけではない。時間があればこの問題意識を別途記事にしたいと思っている。)。

 

 

さて,①の問題はどうだろうか。

たしかに我が国の刑法では,賭博行為が犯罪とされている。

しかし,覚せい剤と同じように,やはり考えて欲しい。なぜ賭博が犯罪とされているのか,ということを。

これは最高裁判例がある。最大判昭和25年11月22日・刑集4巻11号2380頁である。これは賭博開張図利罪の事件であるが,賭博行為について以下のように述べている。

賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。」

時代柄もてつだって,非常に難解であるが,賭博をけちょんけちょんに言っていることがわかる。要するに,偶然に任せて財産を得ようとするもので,「勤労の美風」を害する,副次的犯罪を誘発する,国民経済の機能に重大な障害を与えるおそれすらある,と言っている。

 

「勤労の美風」とは一体何なんだろうか。労働は美しいというのは,普遍的な価値観なのであろうか。国民をだらけさせてないで働かせるために賭博が禁止されるという意味にほかならないのではないか。これを受け入れられるだろうか。

たしかに賭博で人生を破滅させる人はいるだろう。でも,これも覚せい剤と同じで,前者はパターナリスティックな問題であり,やる人を刑罰という重大な不利益を正当化するほど合理性があるだろうか。

また,たしかに賭博ゆえの犯罪というのはあるだろう。しかし,これも覚せい剤と同じで,賭博ゆえの犯罪は,そもそもその犯罪自体が処罰されている。やはり,刑罰という重大な不利益を正当化する合理性があるだろうか。

 

また,疑問に思ったことはないだろうか。

「競馬や競艇も同じでは?なぜ公営ギャンブルがあって,それが許されているの?」

「カジノ誘致しようとしてるよね?」

 

結局,賭博罪も,所詮は国の都合に思えて仕方が無い。

無論,たしかに賭博には上記のような問題があるので,じゃあ野放しでいいのかといわれると,ためらいを感じる。刑罰として禁ずることが全く不合理ではない,とも言えるのかも知れない。

 

ただ,ここで私が言いたいことは,賭博の何が悪いから黒川氏を批判するのか,ということを考えて欲しいということである。

ダメなんだからダメに決まってるだろ,というのは単なる思考停止であり,国の都合に踊らされているというべきである。

検察庁法改正案についての私見

検察庁法改正案に反対する声が多く上がっている。

 

私自身も反対であるが、少し反対派の主流理由とは異なる。

 

改正案の新旧対照表は↓こちら。

https://www.cas.go.jp/jp/houan/200313/siryou4.pdf

 

簡単に言うと、

現行法:検事総長は65歳で定年退官。それ以外の検察官は63歳で定年退官。

改正案:検察官は「全員」65歳で定年退官。ただ、次長検事検事長、検事正は63歳になったら原則としてヒラ検察官になる。ところが、内閣または法務大臣が、公務の運営に著しい支障が生ずる一定の事由にあると認めるときは、64歳まで検事正ポストを続けさせられる。さらに事由が続けば65歳の定年までいける。

 

ということである(正確性が若干怪しいが、正誤については上記の改正案を確認してほしい)。

 

反対派の主要な言い分は、たぶんこういうこと。

黒川さんが内閣忖度野郎で、内閣が検事総長に仕立て上げたいから解釈変更した。この出来事に代表されるように、内閣が検察人事を掌握して自分たちに捜査の手が伸びたりしないように、こんな法改正をしようとしているんだ、ということである。

 

ただ、私はこれは有効な反対論ではないと思うし、私はそうは思わない。

たしかに、検察官は行政からある程度独立した地位にあるべきである。行政にメスをいれなければならないからである。

しかし、検察官は紛れもなく行政作用である。その人事を、行政権が属する内閣が決めることは、まったくもって正しい。

また、検察の人事決定を、検察組織内部で完結させることができるというほうが、まったくもって不健全である。内閣は、国民の力で政権を交代させることができる。これによって「内閣の人事」は国民がコントロールすることができる。しかし、検察庁が内閣のコントロールさえ及ばなくなれば、検察組織は完璧に独善化する。むしろ、今まさにそうなっているのではないだろうか。

検察官は人を逮捕することができる。検察官は人を刑事裁判にかけることができる。行政作用の中で、最も強力な権限を持っている官庁である。“最も民主的コントロールを及ぼさなければならない官庁”といっても過言ではない。

したがって、「政権が検察人事を掌握するなんて何事だ」という反対論は、ありえない。たしかに、現政権の体たらくからすれば、そういう反対論が起きることもやむからぬ面はある。しかし、その反対論を突き詰めていく方が、よほど怖いと思う。

 

そもそも、この法改正内容と、人事権の所在はほとんど関係ない(役職定年延長の点は関係あるといえるかもしれないが。)。なぜなら、現在も人事権は内閣にあるからである。

 

1点補足しておくと、解釈変更で黒川氏の定年延長をしたことは反対である。いや、反対とかではなく、紛れもない違法であり賛成のしようがない。内閣も黒川氏も恥を知るべきだ。

 

さて、検察庁法改正法案について、結論は反対であるが、この法案に私が反対な理由を簡単に述べておく。

①検察組織が生まれ変わるには、若返りか法曹一元しかないと確信している。それに逆行するこの法案は百害あって一理なし。

②公務に著しい支障が云々というが、実際何か支障が生じたのか。63歳だとまずいけど65歳ならしかたなくなる理由は何か。

こんな輩を専門家などと紹介するな

www3.nhk.or.jp

 

以下、上記記事の一部を引用

***

元検事の高井康行弁護士は「今回の事件では弁護団が極めて厳しい保釈条件を提示しそれをゴーン元会長に守らせると主張したため、裁判所が信頼して保釈に応じた。しかし、結果的にその信頼は裏切られ多額の保釈金も逃走防止の役に立たなかった。日本の司法制度をかいくぐってゴーン元会長が国外に出国したことが世界中に知れ渡り、日本の司法制度はその程度のものなのかと思われてしまう。これがきっかけになって第2第3の逃亡のケースが出てくることも十分考えられ、日本の司法制度に対して極めて深刻な影響を及ぼすのではないか」と指摘しています。

また、裁判所が保釈を認めるケースが最近、増える傾向にあることについて「今回の問題はこのまま保釈緩和の流れを続けていっていいのかという極めて深刻な問題を提起している。逃走防止のための新たな法制度や仕組みを法曹三者立法府が早急に検討し、その方向性が見えるまでは保釈緩和の流れを一時中断して慎重に検討すべきだ」と話しています。

そして今後の裁判への影響については、「このままレバノンから戻ってこなければゴーン元会長の裁判が開けずに真相は闇の中となり、『何のための司法なのか』ということになりかねない。極めて深刻な問題であり、政府は外交ルートを使って早急に身柄を日本に戻すよう交渉すべきだ」と指摘しています。

****

 

前々からこの高井康行という弁護士には資格を返上していただきたいと思っていたが、この記事における上記コメントは「最悪」という評価が妥当である。

 

http://www.courts.go.jp/app/files/toukei/616/010616.pdf

上記リンクは平成30年の司法統計であるが、平成30年に保釈を許可されたのが約17000人であるのに対して、同年に保釈が取り消されたのは141人である。141/17000ということではないが、保釈が取り消される事例というのは極めて少ないことがわかる。

このような病理現象ともいうべきごくわずかな事例の1つがたまたま世界的に注目を集めている裁判の被告人だったからといって、上記の物言いはまあ浅はかである。

 

何ヶ月もの間閉じ込められ、人間らしい生活を送ることができず、保釈されたと思ったら、愛する妻と普通に会うこともできない想像を絶する生活を余儀なくされている氏のことを思えば(そしてアンフェアな司法制度をまざまざと見せつけられてもいる)、逃げない方が不思議と言って良い。

私は弁護士として彼の行動を擁護はしないが、批判もまたできない。

 

こういう想像に思いを馳せた形跡もなく、ただでさえ高い保釈のハードルに、今度は保釈後の逃亡防止策を法的に整備することを検討しろなど、こちらの常識からすれば考え方が逆である。

そして極め付けは

「保釈緩和の流れを一時中断して」

という、およそ弁護士としてありえない発言である。

 

つまり、法整備が済むまで、本来は保釈が認められるべきかもしれないあなたも我慢してね、ということである。

人権に思いを致せないのなら、是非弁護士をやめていただきたい。また、こういう考えを持つ人は、さすがに検察官に戻ることもやめていただきたい。

 

そしてNHKは、二度とこの人物を専門家としてコメントを取らないでいただきたい。

桜を見る会

桜を見る会がとても話題になっている。

予算が膨れ上がっている問題に端を発し、本来の目的から離れて単なる集票イベント(税金の私物化)になってるのではないか、さらに安倍自民党総裁後援会主催の前夜祭が公選法違反なのではないか、挙句の果てに名簿を廃棄し...とにかく桜を見る会という一つのテーマに複数の論点が浮かび上がっている。


ところで、私は不思議に思うのだが、桜を見る会をやめるべきだという意見をほとんど見かけない。


桜を見る会の本来の開催趣旨は、


各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰労するため


などというものであるらしい。

私からすれば、開催趣旨自体に反対であり、税金の無駄だと言わざるを得ない。

人はみな何かを生産し、消費し、国に対して何らかのプラスの影響を与えているはずである。もちろん、その中でめざましい活躍というものはあるが、突き詰めるところ程度の問題である。

それを政府が功労者、功績者として「認定」し、桜を見ながら総理と交流しましょうなど、税金の無駄以外の何ものでもない。


たとえばノーベル賞のように、栄誉ある賞があることによって、それを目指すことがひとつのモチベーションとなり、研究や活動が活性化する効果があるなら良い。国民栄誉賞なども、その意味でまだ許容できなくはない(そもそも国が人の功労を選別することに抵抗があるが。)


しかし、総理と桜を見たいから頑張ろうなんていう人がどれほどいるんだろうか。少なくとも私はそのために頑張ろうなどとは全く思わない。安倍政権ではなくても。


無くてもなんの問題もない。ならば削るべきだ。日本の財政に桜を見る如きで何千万も投下している余裕はない。


しかしなぜかこういう批判はほとんど聞こえてこない。ラジカルな意見なのだろうか。また、民主党政権時代に一度だけ開催してしまった手前、こういう攻め方はしにくいのだろうか。


この問題を調べている過程で読んだのだが、

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68505?_gl=1*1534r1b*_ga*SEZmR3JLR2s0T2R3UXAwbXVwbnRGaGpBYWhfQ2JPSExBU1ZIMnc4TnFwVldOdXdfaEhURFMzakRGdFpkZWxGbA..

この記事に


筆者のように数字ばかり見る人間にとって、5500万円の予算を野党が一斉に「税金の無駄遣い」と非難するのは、会計の重要性原則からみれば的外れだ。


などという記載がある。

会計の重要性原則ってこういう意味だっけ?という感じであるが、そもそも、5500万円という金額を、相対的な見方だけで的外れと切り捨てる人物に、財政を語る資格はない。

悲劇の中で

33名(現時点では34名とも)の方が悲劇に見舞われた事件が発生した。

亡くなられた方,そしてそのご遺族の方には,心より哀悼の意を表明したい。また怪我を負われた方に対しては,一日も早く回復を望んでいる。

 

***

しかし,この時期にこんなことを書きたくは無かったが,この事件に関して,看過しがたい記事を見つけてしまったので,コメントせざるを得ない。

www.cyzowoman.com

 

以下,弁護士のコメントの引用。

 

「この鑑定において、医師等が専門的見地から、『まさに罪を犯そうとしているときに、精神の障害により物事の善悪を判断できる状況にあったか』を検証し、裁判所に意見を提出します。裁判官はこの意見を踏まえて、法律的見地から『この人物に刑を適用して罰するべきかどうか』を判断するわけです。なお、起訴するかしないかを判断する検察官が、起訴する前に科捜研などで被疑者に検査を行い、『この人物は心神喪失だ』と判断した場合には、そもそも『起訴しない』こともあります。この場合は、刑法第39条を適用するわけではなく、『起訴しない』という判断になります」

「今回の事件においては、犯人性(犯人ではないこと)を争うような弁護活動は無理ですし、情状を酌んでもらうような弁護活動も無理でしょう。となると、“お決まり”のように、心神喪失心神耗弱を主張するなどといった弁護活動がなされるでしょうが、報道によれば、青葉容疑者は犯行直後に『パクられた(真似された)』と、動機のようなことを口にしていたとのこと。そのような状況であったならば、心神喪失心神耗弱を主張するような弁護活動も、まず無理でしょう。公判において、もし青葉容疑者が罪を認めるのであれば、弁護人は余計な弁護活動をするべきではないと考えます」

 

この弁護士のコメント内容は,およそほとんどの内容が間違っている。

弁護士が間違ったことを言っているのがそのまま間違っているのか,それとも弁護士が正しいことを言っているのに記者が間違っているのか,というのはよくわからないが。とにかくコメントが間違っている。

①まず,責任能力における「行動制御能力」の要素が欠落している。

②検察官が責任能力がない(という疑いが残る)と判断すれば不起訴になるのはその通りだが、刑法39条の適用がないというのは誤りといって良い。当該犯行に刑法39条の適用がある(という疑いが残る)という判断から、公訴を維持できないから起訴しないのである。そもそも、実体法の適用の有無と検察庁の処分を同レベルで論じること自体がおかしい。

③科捜研で責任能力鑑定をやるなど無いはず。聞いたこと無い。あったとしても例に挙げられるような一般的なものではない。

④なぜ証拠も見ていないのに犯人性を争うのが無理と判断できるのだろうか。極めて難しいことは報道の情報からすると推察できるが,この段階で,どんな証拠が眠っているかはわからないはずだ。報道レベルの知識しか持っていない立場で弁護活動の可能不可能を論じる資格はない。

⑤「パクられた」という動機があることで,なぜ責任能力を争う余地がなくなるのか。動機の了解可能性は単なる1つの要素であって、それがあるから必ず完全責任能力になるというわけではないし,そもそも了解可能かどうか,この一言では判断がつかないはずだ。「お決まりのように」などというが、異常な犯罪が生じた場合に本人の責任能力に目を向けるのは当たり前であり、何らの調査もしないなら弁護過誤と言ってよい。

⑥被疑者が罪を認めたら余計な活動をするべきではない、というのは、職務放棄である。

 

およそ弁護人の役割も責任能力の概念も刑事実務も理解していない内容である。「誤報」と評価して良い。

 

たしかに,このような惨劇が生まれ,その原因を作った「かもしれない」人に対して,やり場の無い怒りをぶつけたくなるのは気持ちとしては理解できる。

しかし,こと弁護士が,もしくはこと弁護士のコメントを得た者が,こうやって世間にウケそうな浅はかな,しかも誤った内容を,さも正しい専門知識かのように世間にロールアウトするのは,極めていただけない。

こういった重大事件だからこそ(事件の大小で役割が変わるわけでは無いが),弁護人はその役割を貫徹し,その訴追されうる(された)人の権利を最大限に保護し,ひいてはこの国の適正な司法システムを守らなければならないのである。

本当にこの弁護士がこのようなコメントをしたのならば、バッジを外すべきである。