もう家にいよう

吉本興業に所属する芸人らが、闇営業により、反社主催のパーティーに出席して金銭を受領した問題について。

例えばこの記事のように、芸人らに対する批判的な意見が多い。この記事内には、擁護する意見も紹介されているが、それに対する批判的な意見も併せて紹介されている。
 
この問題はポイントが複数ある。それは、①事務所を通さずに営業していたこと、②反社のパーティーに所属していたこと、③反社から金銭を受領したこと、④虚偽の説明をしたこと、である。
 
しかし、この問題、契約解消だの無期限謹慎だのバッシングだのに値する問題なのだろうか。
 
①について、吉本は契約書を作成していないというのであり、専属マネジメントなのだろうが、本当に約定に違反したことになるのか、不明瞭である。不明瞭の責任は、吉本側にあるだろう。
また、①から④すべてに言えることは、どの理由も全てそれ自体犯罪ではない。まして、知らなかったというのであれば、なおさら仕方ない。
 
知らないものをどうやって回避せよというのか。
 
反省しろとかいうけど、何を反省するのか。
知らなかったものをどうやって反省しなければいけないのか。
再発防止のためにできることは、もう「大人しくしていること」である。
しかし、それで良いのだろうか。
こんなことを言い出せば、何もしないで家にいるほうがいいだろう。下記URLで芸人が痛烈に皮肉っているがごとくである。
 
この国は、ひとたびルールからはみ出た瞬間に、再起を難しくさせる。何かを悪と決めつければ嬉々として再起不能になるまで叩く。
衰退するしか道が見えない。

大崎事件決定論評

大崎事件の,最高裁による再審開始決定取消決定文が公開された。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/758/088758_hanrei.pdf

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/759/088759_hanrei.pdf

 

大崎事件についてさほど知識を持っておらず,また,当然証拠関係を全く見ていないので,決定文限りの論評であることを前提としていただきたい。

 

今回,弁護人が新証拠として主張したO鑑定(略語は決定文に倣う。以下同じ。)について,原々決定も原決定も新証拠として認めたが,最高裁はこれを認めなかった。

その認めなかった理由は,すごくざっくりいうと

⑴あんたの判断根拠となった情報は少ないし色々問題だよね

⑵あんたは色々検討していないよね

というのを「問題点」として挙げ,他の証拠も見てみましょうということになり,

⑶やっぱ他の証拠強いわ

ってことである。

 

今回の決定は正直,意味不明といわざるを得なかった。

決定文によれば,「O鑑定の骨子は,①頸部圧迫による窒息死の死体であれば,圧迫部上方や顔面の鬱血を必ず認め,頸部筋肉内出血を大半に認める,また,腹臥位で遺棄された場合 には,体の前面に死斑,血液就下を認める,腐敗が進むと,鬱血,死斑,血液就下 は黒くなるはずであり,白くなることも消えることもない,ところが,Cの死体は,顔面,前頸上部及び胸部の外表並びに前頸部及び胸部の筋肉が白っぽく,前記の各所見をいずれも欠いており,タオルで頸部を力一杯絞めて殺したとする確定判決の認定事実と矛盾する,②死体の右腹部及び胸部の変色は,深層に,肋骨骨折による胸壁出血,腎損傷による後腹膜下出血,骨盤骨折による骨盤腔軟部組織出血等 の存在を示唆するもので本来切開すべきであるところ,I旧鑑定はこれを怠っている,死斑,血液就下,腐敗血管網を認めず,体の右側に打撲によると推定される広範な出血を認めるCの死因は,農道上の発見状況も勘案すれば,出血性ショックである可能性が極めて高い」

というもののようである。

 

私は,②の方に関しては,推論が含まれているため,これ自体がそこまで説得力があるとは,私としては思わない。

しかし,①の方については,確定審の認定に矛盾を突きつけるものであるため,これが決定的なのではないかと感じる。

ただ,この内容自体は,おそらく第1次再審時におけるI新鑑定とJ鑑定で出ていたものだったのだろう。しかし,この時点で共犯者とされた人物らの供述の信用性は決定的に落ちるはずなのではないか。これは殺害態様という,核心の核心の核心部分である。

しかし,第1次再審はこれを葬った。

そこにこの②があると,前記のとおりこれ自体はそこまで説得力がないとしても,①とあわせれば,確定審の死因の認定が誤りであることを指摘した上で,さらに出血性ショックの可能性を示唆するものであって,ダメ押し的な位置づけになりうるだろう。

 

ところが,最高裁は,さまざまな難癖をつけまくった。

写真しか見ていない鑑定人などいくらでもあるし,おたくら裁判所はそれでもさんざん信用性を認めてきたのではなかったか(私が担当した事件では,そうされた経験がある。)。

唯一,①について疑義を挟む(と私が思える)のは,

「また,P鑑定により,絞殺であっても鬱血がないかこれが少ない場合や頸部筋肉内出血が明瞭でない場合があること,腐敗血管網は必ずしも腐敗した死体の全例に見られるものではないこと,血液就下等が見られないというだけで死因を出血 に関連するものと推定することはできないことなどが指摘されている。」

という,部分である。

しかし,P鑑定の信用性については何の評価も加えていない。

ここの見解の対立は非常に重要に思えるのだが。

 

それで,そういった科学的推論に対して難癖をつけまくった後,”死体が埋められていました”という事実からさまざまな「供述証拠」の信用性を認めて共犯者供述を丸呑みにし,O鑑定は合理的な疑いを抱かせるものではないとした。

 

結局,死体が埋められていた+共犯者の自白で全て決まっている。絞殺と矛盾した所見だと言っているのに。今回はさらに,別死因の可能性を指摘しているのに。

 

全く美しくない論理である。

本当に”最高裁”が書いた文章なのか,と驚いてしまう。

袴田事件の再審開始決定を東京高裁が取り消した昨年の決定の理屈の方が,まだ納得できた(問題はあるにせよ。)。

 

 

 

まあ,証拠を見ていないので,私の論評も自ずと限界がある(最高裁風)が,正直,決定文限りでは,論理的な判断とは言いがたいものであった。

予定主張病

www.sankei.com

1ヶ月以上前だが,現東京地裁刑事部部総括判事のインタビュー記事である。

 

この判事の方に,以下のコメントがある。

「ただ公判前の段階で、類型証拠開示を全て行ってからでないと、どんな主張をするか一切言えないという弁護人がわずかにいます。どの辺りを主に争うか分からないと争点整理のしようがないので、改善してほしいと感じています。犯人性を争うのか、犯行態様を争うのか、全く無罪を主張するのか。公判前整理手続きで証拠開示も進んでいます。検察官は任意でも証拠を開示しているので、それらを見るだけでも大部分の証拠はわかるのではないかと思います」

 

こうおっしゃられる裁判官は体感として結構存在する。

まだ類型証拠開示が済んでいない,早い段階での応訴方針の表明を要求してくる。

酷い場合には,まだ検察官の証明予定事実及び証拠請求がない段階で予定主張記載書面の提出時期を決めようとしてくる裁判官もいる。

私は,こういう考えを持つ方を「予定主張病」と呼んでいる。

 

たしかに,裁判官にとってみれば,弁護人の応訴方針が明らかにならないと,主張整理も証拠整理も進まないので,そう言いたくなる気持ちは理解できる。

しかし,刑訴法316条の17第1項では,予定主張を明らかにするのは,類型証拠の開示を受けた後だ,と書いてある。したがって,別に上記の対応を取る弁護人が違法なことをやっているわけではなく,むしろ法文に忠実に遂行しているに過ぎない。

実質的にも,弁護人は証拠と矛盾した主張を展開するわけにはいかないわけだし,有利な証拠があるかもしれない(検察庁は有利な証拠を隠した歴史的実績がある。)ことを思えば,依頼人に対する職責を全うする上で,類型証拠の全ての開示を受けるまで,原則として主張を明らかにするべきではない。

無論,個々の事案に応じた柔軟な対応は必要であろうが,類型が出され切るまで主張を一切言えない基本路線を論難されても困るし,筋違いだというべきであろう。

検察官は柔軟に任意開示している,などというが,所詮は任意であって,全面開示でない以上は,開示されていない証拠を検討する必要性は任意開示の多い少ないでは関係ない。検察庁が証拠隠しをしてきた歴史的実績もあるわけだから,今もそんな野蛮なことをやるとは言わないが,信じろと言われても無理だ。

弁護人は被告人と(多くは捜査段階から)接見しているから,どんな主張かわかるだろうなどとも言われる。その主張が全ての証拠をちゃんと説明できるかを検証する必要があるわけだし,証拠を見てあいまいな記憶が整理されストーリーが変わってくることもあるわけだし,時には証拠を見て「すみませんやっぱりやってます」と言う方だっている。

つまり,弁護人にとって,類型証拠開示が終わるまで何らかの主張を明らかにすることは危険なのである。

「あくまで暫定のもので良いですから」「あとで変わっても良いですから」なんて言われるけれども,申し訳ないがそこまで裁判所を信用していない。また,変わるかもしれない主張を整理する意味は何なのだ,と問いたい。

改善すべきは弁護人が取る上記基本路線ではなく,税金で集めた証拠の包括的全面開示を認めていない刑訴法,税金で集めた証拠を包括的全面開示をしない検察官である。その上で,開示を受けた時から合理的な検討期間を経過してもなお主張が明らかにできないのであれば,たしかにそれは弁護人の怠慢と言わざるをえない。

 

そのことを理解しないご発言を全国紙のインタビューでなされるのは,いただけない。

 

 

薬物の使用はなぜ犯罪なのか

芸能人が薬物使用によって逮捕され、それがニュースを賑わせることはしばしばある。

最近も、有名なミュージシャン、アイドルなどが逮捕され、世間から大バッシングを受けた。


しかし、よくよく考えて欲しい。

なぜ、薬物の使用は犯罪とされるのか、ということを。


犯罪が犯罪とされるのは、対象となる行為を禁じることによって、なんらかの利益を保護するためである。この利益を、学問上、保護法益と呼ぶ。


たとえば、殺人罪の保護法益は、人の生命だ。窃盗罪の保護法益は、人の財産だ。こういう個人的な法益だけでなく、放火罪なら公共の安全(ざっくりいうと。)、収賄罪なら公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼、というものが法益として考えられているものもある。


では、最もポピュラー?な、覚せい剤の使用は、なぜ処罰されるのか。


よく言われることは、覚せい剤は人体に有害であり、依存性がある、ということである。しかし、それはそもそも使った人間の自己責任であり、使う人の健康を守るために使う人を処罰するというのは筋が通らない。


また、覚せい剤の作用で頭がおかしくなって、他人に危害を加える、ということも考えられる。

しかし、それは第一に、危害を加える行為そのものが処罰対象になる。事前抑制という意味では効果があるかもしれないが、刑罰という重たい不利益を科すことと均衡が取れるだろうか。また、このことは、酒にだって同じことが言えるのだが、なぜ酒は許されるのか、合理的な説明はできないはずである。


暴力団の資金源になる、という考えもあろう。しかし、それは法禁物にされているがために闇市場でしか取引できないからにほかならない。タバコを暴力団から買う人間など居ないだろう。


このように考えると、覚せい剤使用の罪の保護法益というものがよくわからなくなってくる。

覚せい剤使用の罪の保護法益は、覚せい剤の乱用による保健衛生上の危害を防止することにある、と言われている。覚せい剤取締法の目的そのものである。覚せい剤を乱用すればいろいろ危険だ、ということで規制されてるということだ。

でも、人体に有害だったり、他人に危害を及ぼしたりするのは、酒やタバコだって同じであり、程度の問題はあるかもしれないが、結局国の都合によって、許容されているものとそうでないものとにわけられているのである。

とはいえたしかに、だれもが覚せい剤をフリーに手に入れられるのであれば、社会が混乱しかねないということは肯首できる。私も規制は必要だと思うが、規制の仕方として、自己使用を「刑罰」で禁圧することをどこまで正当化できるかが問題である。


ミュージシャンやアイドルに対してバッシングをしまくっているメディア、浅はかコメンテーター達、その他市民は、このことをわかっているだろうか。

保健衛生上の危害を生じさせたなんて許せない!なんて思ってバッシングしてる人なんてどれだけいるだろうか。

ただ悪いとされているから悪いと思い込んでないだろうか?

何が悪いのかもわからず、とりあえず悪いとされているから悪いというのなら、そんなものはただの思考停止だ。


私は覚せい剤とか薬物を肯定はしないが、くだらないバッシングに与することは絶対にしたくないとつくづく思う。


浅はかなご意見番

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/30/kiji/20190530s00041000120000c.html


https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0530/ltr_190530_1846797838.html


登戸で起きた非常に痛ましい事件。

この事件に関して、この対象的な2つの(3つか?)コメント。


どちらが真に社会のことを考えているか、私には一目瞭然だ。


今回の事件で、理不尽にも犠牲になられたお二方に対して、心よりお悔やみを申し上げたいと共に、怪我を負われた方については、何よりも回復を願うばかりである。


その上で、現段階でも、徐々に亡くなられた被疑者の像が明らかになっていく。


しかし、この立川志らくという浅はかな人間は、「悪魔」呼ばわりをし、「死ぬなら一人で死ね」と切り捨てる。

こうやって、社会が、社会から外れた人をますます排除しようとする。それは、ただただ、新たな悲劇を生むだけである。勝手に、まるで自分が被害者かのように、自分の怒りを公共にぶつけて、「今日も人々の気持ちを代弁した」というような気持ちで、さぞ悦に浸っているのだろう。記事内の引用では、「でも落語家だ。人情の機微を表現する事が仕事」と言っている。

しかし、こんな意見は、何ら問題を解決しない。

ただの自己満足以上の何者でも無い。

むしろ、もうひとつの記事にある藤田氏のコメントの通りだといえる。


何の落ち度もない誰かを巻き込んで死ぬというのはもちろん許されるべき行為ではない。それ自体は、当然、非難されるべきことである。

しかし、しかし、ただ怒るだけで満足して終わりなら、クソの役にも立たない発言を垂れ流しているだけだ。

この立川志らくという人間は、ただ単に俗物の浅はかな感情に応えたに過ぎない。

そんなことでは、犠牲になった方は生き返らない。

遺族の悲しみが癒えるわけでもない。

そしてこの事件がまた繰り返されることを防げるわけでもない。

二度とこのような悲劇を起こさないために、我々に何ができるか、を考えるべきである。